It Was 20 Years Ago Today

  • 1989年のアルバム「服部」からユニコーンさんとのお付き合いは始まった。けっこう長い。長いが、その間ずっと、熱狂的にファンをやっていたかというと少々違う。私にとってユニコーンはもちろん「好きなバンド」ではあったけれど、「大好きなバンド」である前に、圧倒的に「正しいミュージシャン」として存在していた気がする。
  • 「正しい」とは何か。それを理屈で表そうとすれば泥沼になるのが見え見えなのでここは具体例で押し切る。オーケストラに負けることなく疾走する『大迷惑』が正しい。ロックな『ケダモノの嵐』の歌詞に突然立ち現れる文語が正しい。(『立秋』はあんまり正しくない(作詞者阿部だから)) 美しいハーモニーでこのうえなくしょうもない決意を歌う『風』が正しい。みんなが曲を作り、みんなが歌うのが正しい。そしてそんなにも正しいのに、インタビューでは九割方あほうなことばかり喋っているのがまた正しい。
  • それを可能にする人材が5人も揃っているという、ユニコーンは大変な集団であった。いや、集団だ。(現在形だよ。凄いね。どうも改めて凄いことだね)
  • ついにこんな人々が現れたかと20年前の私は唸って、それで「これで日本も安心だ」みたいに思って、リリースされるアルバムを聴いてはただ安心していたのである。確か。
  • ライブに行こうとかはとくに思わなかった。しばらくメンバーの区別もつかなかったくらいだ。さすがに一度くらい見ておこうかとした矢先にドラマーの人が抜けて完全に出鼻をくじかれたり。それから半年でバンド自体なくなってしまい、むしろその後にオフ映像等をたくさん見たことで「やばい、こいつら素でいるだけで面白い」と生で見なかったのを後悔しはじめるのだが、それはさておき。
  • どうしてかように当初、やや引いた姿勢で眺めていたのかといえば、なんというか「正しいものは時として疲れる」というか。
  • 音楽のいかなるジャンルからもおいしいとこ取りをしてやろうというスケベ心を忘れず、またそれを実践できる技術まで持ち合わせてしまっている人々の作る音はそりゃもうクオリティ高くって、ためにときどき、ほんとにときどきだが、「うんわかったよ、おまえらが才能あるのは」的な気分になったんだな。どこに出しても恥ずかしくない音だと思うけれど、「自分がいま欲している」のはもっと狭量や貧乏や恥ずかしい音の場合もあった、という。たまに食べるフルコースは豊かな気持ちになれるけど、毎晩それじゃ胃がやられるというか。
  • もちろん曲のなかには、毎晩の白飯的に手放せない『開店休業』や『サマーな男』『ボサノバ父さん』等もあったんだけれども。しかしなんつう曲名群か。
  • そして今回の『シャンブル』。溢れる才気は相変わらずで、テクニカルにも磨きがかかって、にもかかわらず驚いたのは、まったく胃もたれしないんだ。
  • 豪華なのに後味さわやか。というか、むしろ後を引く。丸ごとおかわりしたいと思える。決して思い出に浸りたいからじゃなく。
  • 別の喩えをすると、16年前までのユニコーンが新品でふかふかのおふとんだったとするならば、今のユニコーン(凄いことだね)は体に馴染んだ、暖かくてちょっと湿った(笑)寝床って感じなのだ。なんなんだろう、この堕落を誘う心地よさ。『ザギンデビュー』ですら聴き入ってしまうもの。(いやこれ、16年前だったらたぶん私は飛ばし聴きしていたタイプの曲なので)
  • 考えるためにはやっぱり具体例が必要だな、ということで無謀にも今後、全曲レビューなどを企んでいる。