第48回つけたし

  • うろ覚えで申し訳ないが、司馬遼先生の「燃えよ剣」では確か、投降しようとする近藤が引き止める土方に「京での自分は本当の自分ではなかったような気がする、もう好きにやらせてくれ」と微笑むんだったよね。あれはあれで、すごく美しい場面だったと思う。よくわかってない、はしゃぎがちなおっさんが初めて自分を見据えた。そこにはドラマがあった。
  • そしてドラマがあったということは、その場面は「事実の羅列」のみではできていなかったってことだ。作家の解釈があって初めて、人物ってのは生き生きと見えてくるものだから。
  • そして今期大河の近藤は。京での五年間を「あんな楽しいことはなかった。俺は満足だ」と微笑んだ。そこに自分がいたことを驚いてもいるようだったけど、それでも確かに自分がいたのだと認めた。以下、憶測。今期大河の脚本家が何より近藤に言わせたかったのは、その一言だったんじゃないだろうか。
  • 実在の近藤勇が「あれは自分じゃなかった」と考えたか「あれも自分だった」と考えたか、そんなのはわからん。共に生きた人でもなければ金輪際わかるまい。ただ正解の近似値は、たぶん「あれは自分じゃなかったような…でも自分でもあったような…」という、かなりドラマになりにくいあやふやな心持ちのような気がする。とりあえず、目に見えて存在するのは近藤が流山で投降したという事実のみだ。
  • 事実とあやふやな心からできた現実よりも、胸を打つドラマのほうがどうしたって人の記憶には残る。でも五年間、結果はどうあれ一生懸命働いてきた人が、もしもその日々を他人に「あれは本当じゃなかった」で片付けられちゃうことがあるとしたら…しかもそれがやけに説得力を持って世に浸透しちゃったら…ねえ? 誰かがなんか一言、差し挟んでやりたくなることもあるんじゃないのか。
  • 現実よりもドラマのほうが訴える力が強いのなら、司馬遼先生と同じくらい美しいドラマを、まったく逆の方向で作り出してやるぜ!ともしかしたら脚本家は決めていたのかもしれない。いやほんとに憶測に過ぎないけれども。
  • そもそも「してやるぜ!」って語尾ほど三谷幸喜に似合わないものもないけれども。