第33回つけたし

  • 山南を演ずる堺雅人がその死について「すごい人だった、いい人だったと感傷的になりすぎず、かといって、死ぬべき人間としてないがしろにもしない」(ステラより)と語っていた意味が、今になってもう少しわかったような気がする。気がするだけだけど。
  • そういう私は一夜明けてもやっぱり、あの人がなんで死ななきゃいけないのかわからない。というより「死んで終りにしようなんて甘いぞゴルァ!」と怒っている。怒っているのは山南さん個人に対してであって、ドラマそのものについてではない。「新選組!」というドラマがこの死によって何かを訴えようとしている、という気がしないからだ。
  • 人の死はとても大きな出来事だから、物語にそれが出てくるときには、たいてい大きな意味を持つ。「新選組!」で挙げるなら、進むべき方向を見つけたとたんに斬られてしまった殿内の無念とか。最後の最後に浪士組の存在を許したお久ばあちゃんとか。負の情念で生きていたお梅の、むしろ前向きな生としての自害とか。いい加減くどいと思うので鴨については省略するが。
  • とりわけて三谷幸喜という劇作家は、無駄な死を書かない人だろう。これは「物語の構成に対する無駄」という意味であって、「物語世界の中での無駄死に」とは違う。葛山武八郎なんか相当の無駄死にだったと思うが、「本だけ読めればいいノンポリが安直に生きられる場所と、そうでない場所があるんだよ」と訴えてくる力はすごく強かった(あー耳が痛えや)。
  • 新選組!」が三谷幸喜の完全オリジナルストーリーであったなら、もしかして山南が死ぬ展開はなかったんでは?と思うのだ。だってあんな人が切腹するなんて、物語に起伏がなさすぎる。独り決めしがちな人が、独り決めして選ぶ死なんて。作家にとっては最後の最後にひっくり返すためにあるシチュエーションとしか思えない。
  • だが、現実にはいくらでも、最後にひっくり返らない死はある。「うそでしょ?」と思っているうちに淡々と時間が過ぎて、生きている人が死んだ人になるのを見ているしかない状況ってのが。そして「新選組!」は困ったことに、四分の三まで史実でできている(比率はタイトルの字数に基づく。つまり「!」のぶんがフィクション)。阿比留鋭三郎や野口健司の死は排除できても、山南敬助のそれはさすがに回避するわけにいかない。
  • そんな条件下であの山南さんを生んでしまった劇作家というのはもう、らしからぬ、常ならぬ姿勢への挑戦をするしかなかったんじゃないか。いや、「するしかなかった」のか「最初から狙ってた」のか知らないが。
  • 自分の死を自分だけのものとして抱え込み、意味づけを拒む人間の姿を、せめて丹念に追うこと。それが「『ここには山南がいつも座っていたけど、今は誰も座ってないよね』って、その事実だけを描いている」(ステラより)だったんじゃないのか……と思うのだ。ただの憶測だけど。
  • 物語は山南さんの死に意味を与えない。逆に山南さんからは、死によって物語に山ほどの影響が与えられるだろう。とんでもない人だ。一登場人物に過ぎないくせに、自分の意思だけで死を選び取りやがった。勝手に。とつい付け足したくなる私は、やっぱり少し怒っている。