常々思っていることですが、悪口を言うのに必要なのは批判精神でも知性でもなく、愛嬌です。

  • 机の上に爪先立ちしてオベーションしてもまだ足りないくらいの卓見だと思いました。そうだ、愛嬌だ、それが必要なんだ(自分に言い聞かせる)
  • これ以上何を付け加えても蛇足だけれど、分析もどきで遊んでみる。愛嬌とは、「私を笑い者にしてもいいですよ」という意識的ないし無意識的な懐の深さであろう。そして悪口とは、悪口の対象の側の主観をひとまず無視して、こっちの目からだけ眺めた結果の、ネガティブな描写を集めたものだ。こっちがあっちの主観を無視して好き放題言うんなら、第三の目がこっちの主観を無視して好き放題言う可能性も認めなきゃフェアじゃない。だから、笑い者にされる自分を潔しとしない、愛嬌のない悪口は美しくない。
  • そして、笑い者にされてもいいという覚悟の抜け落ちた、形ばかり愛嬌をなぞった態度くらい不気味なものもないと思うんですよねえーーっo(^-^)o!!←こんな感じ。
  • さらにそして、悪口を芸の域に高める愛嬌、そんなものをこそ本当は「知性」と呼びたい自分ではある。広辞苑に載っている意味とは違っちゃうとは思うんだけれども。