第45回 源さん、死す

  • 今日の主題にはなかなか触れたくないのだ。だから遠回りして始めよう。第43回感想で薩長の作ろうとする世を、新しい世などではないと言い切った局長に快哉を叫んだ私だが、もちろんそれだからって薩長=極悪人とは思っていない。新しいことがすべて良いとも思えないし。というか、新しくって良いことってたいていそれを始めた人の個人的資質によるところが大きいから、長続きしないんだよなー。
  • なんか話がそれた。えーと、あの時点で一番大事だったのはたぶん西欧列強に食い物にされないことだったと思うので、それを達成してくれるんなら徳川の世でも薩長の世でもどっちでもよかったな、というのが私の気持ちである。それでたぶんあの時点の徳川体制にそれを維持するのは難しかったような気がするので(人材はいても、体制が古びすぎていて)薩長に交代したのがまだしも得策だったかな?という気持ちである。両方手を相携えて、というのが理想なんだろうが、関が原以来の怨恨を考えればなかなか難しいことだろうし(この項明らかに「風雲児たち」の受け売り)
  • で、世をひっくり返して主導権を握るなんて大仕事をするときには、人間そりゃ悪人面になるのが当たり前だ。そのくらいのエネルギーがないとやってけない。だいぶんスケールは違うが、新選組内部でも24話あたりで同じ姿が見られたっけ。
  • そのかわり、エネルギーを費やして人を陥れたり、抹殺した時点で、相手方から恨まれるのも当たり前だ。「どっちもどっち」というのは第三者だから言えること。悪人である自分を引き受ける、というのが、見苦しくならない唯一の態度だと私には思える。
  • そして今期大河における西郷どん、大久保どん、岩倉卿は、それを十分わかっている人々だと私には思える。結局何が言いたいかというと、錦の御旗のくだりが大変微笑ましかったってことなんですけどね。
  • そして一方、だから「局長が」奴らは正義ではない、と喝破したことが大事だったと思う。歴史を俯瞰して出る第三者の判断ではなく、その時代に対立し(て、敗れていっ)た者の率直な感覚として。言ったその人が、やや情に流されがちではあるけれど狂信的に自陣営を持ち上げて他を貶めるような人ではないのを、見ているこちらはすでに知ってる。四十数回見てきて知っている人だから、こちらが真の第三者として発言と発言相手を見られる。
  • いやまあ、真の第三者ともいえないわけだが…なにしろ自分の国のたかだか百数十年前の話だから。へんな言い方をしてみるとね、明治維新は第二次大戦後生まれの日本人の私にとって、「おまえたちは全然なってない! 俺の若いころは云々…」と説教する親みたいなものなんだな。で、あのときの局長の台詞は「あいつはああ言うけどなあ、あいつも若いころは全然なっちゃいなかったぞ」と笑うおじいちゃんみたいに思えたんだよ。親子だけで考えると家族も煮詰まるよねって、また話がそれた。
  • さて、第三者から見れば「どっちもどっち」だ。敵でも味方でも、失われる命に軽重はない。それは真理だが、身内や友人の死は悲しく、知らない人の死はそれほどでもない。それも真理だ。
  • 源さんが死んじゃった。畜生!
  • マトリックスはちょっとどうかと思ったが(出た涙も引っ込んだよ)最後に局長に会いに来るとはなー…………。「死んだ奴がなんで泣くんだ」って言われて、「あっそうか」って小声で言って笑うんだよ。「あっそうか」って。泣くわ! ばか!